昭和40年05月27日 朝の御理解



 昨日の朝の御理解を頂きました後に、堤さん所の息子さんがねキヨシさんが、御祈念中に頂かれたというお届けがございました。朝の御祈念をこうして奉仕させておる時に、途中で眠られたらしいですね、御祈念中にそしたらそのお夢の中にですね、御神前がいっぱいあの楽、鼓ですね。太鼓の上に金で(なみがったの)あれが出けておるでしょう、上がそして中に八波の御紋章がこう浮き彫りにしてございますですたいねぇ、
 ああ言う様にその、その金の波の中にですね、八波の御紋章がこう浮いておるところを頂かれたちゅうんですお夢の中に、御祈念中にね。皆さん昨日の朝の御理解を頂かれた方は、すぐピンとくるでしょうけれども、昨日の、朝の、御理解の中にねぇ、あの、港の歌の、あの御理解でしたです、「寄せ来る波は・・」「寄せ来る波も、小金なり」と言ったようなね、あの御理解でしたですかねぇ。
 本当に神様が今度の椛目のこと御造営のことにあたってはですね、もうそれこそそこ合楽にです、石浦の港にですね、ね「光の港?」と、ね、それから「罪の港」という事を頂いて、ね、「そこ合楽にですね、他のところは神無月にしてでも、ここに神様が集まられる」というようなことを頂いたんですね昨日の御理解の中に、そこ合楽にです、ね。他のところを、言わば神無月にしてっちゃ、よその神様の働きというものは全部椛目に集中して、神様の、港にです。
 神様方が皆集まってみえるという事、ね、その神様の勢いをですその働きをです、受けて立たせて頂くなら私共だと、ね、そういう受けて立てるだけの信心が出けておるかどうかと言う様な、御理解でございましたでしょうが。ね、神様の思いというのはそう言う様なもの、ね。昨夜土井の共例会皆さん帰ってみえられた、それから丁度その前にあの秋永先生達やら杉山さん達、と秋永先生とおい出てみえられたんです。
 それでその最近頂きます朝晩の御理解を、私がかい摘んでダイジェスト的にそのお話しをさせて頂いて、もうこんな生き生き、こんなお話しを頂いておりますとですね。もうきりがな例えばこの二・三日のあの山田醤油やら、キッコウマンね醤油のあのお話しやら、それから昨日のお話しやら、昨夜のお話しやらをさせて頂いてたんですよね、でこんままじゃ( ? )何時まで時間のたつのも、その分からんようになりますと言いながら、もう帰られたのが、もう12時過ぎだったでしょうね。
 それでその表に出たんですよところがです、正樹さんが車に乗ってきてます、杉山さんが乗ってきています、文男さんが乗ってきています、それからヒサドミ家の車もだったそうですから、4台か5台かこうズラーっと車が並んでましたんですけど、その車がみんないたずらされているんです、あの鏡のついたのがこう盗られたりですね、あのラジオのこう、アンテナですかあれが折られたりです。
 もうその4台4台みんなそのやられてるんですね、まあたちの悪いいたずら、勿論いたずらでしょうけれども、いたずらする人のあるもんじゃありますよね、杉山さんなんかは、このアンテナは自動式のだったから、それを変えるだけでも6千円から掛かるそうです(笑)「はぁもう6千円やられた」っちから言ってるんですね。それこそそのお参りをさせて頂いておって、もうしかもそこで有り難いお話しを頂いておって。
 時間をとっておっとってもです、その帰りにはそういう例えば、あ、いたずらにあったりですね、難儀な事になっておるということなんですよ、ね、正樹さんが言ってました「もうおかげ頂いた」と「もうガラスでんわられるとだったら(笑)」と言っていたけど「こんくらいですんでよかった」っち言う様に、まあ頂いているわけなんですけれどもね。勿論そのくらいな事でですよ、
 なら夕べ参っておった方達が、心の中にそのおう、まあ折角の和らぎ賀ぶ心とでも申しましょうか、ね、お話しを頂いて心の中が勇みたっている、生き生きとした喜びで表へ出た途端に、シュンとしてしまって無くなったと言った様なことはありますまいけれども、もしそうであったとするならば、あのその和賀心というのは、本物じゃなかったという事になるでしょ、ね。
 本当になら今までそれこそ雑談一つ無い、もう本当に最近の御理解をかい摘んでではあるけれども、まあ色々お話合いのあった後にですお話し、御理解を頂いて本当に有り難いという生き生きとした思いでです、表出らして頂いた途端に、そうしたあぁ困った事が、困った事って言うか、そういういたずらをされてるわけなんですよ、ね、途端に私の心の中に今まであった和らぎ賀ぶ心が、消えて失せるような事では、私はそれは和らぎ賀ぶ心ではないと思うてしまうんですね。
 昨日の朝、妹が御神前で頂いておりますのが、「美和」という「美しい和」ということ、「美しく和らぐ」と頂いた、もうそれは実に綺麗な字で頂いたということなんです、私それを頂いて、「はぁ、素晴らしいそれはことだなぁ」と思うたんです、いわゆる「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり」いわゆる和らぎ賀ぶ心にあると仰るがです、ね。
 御理解を頂いておる、本当に、一つ一つ、なるほどなるほどと思うて頂いておる、ね、私が伝えておるものを皆さんがです、もう本当に目に涙を溜めてから、「もう先生そうどころではございません」と言うて、目に物を言わせるような態度で、御理解を頂いておられる、もう時には皆さんの心の中にはです、和らぎ賀ぶ心でいっぱいなんです。御理解を頂いておる間に、御祈念をさして頂いておる間に、私の心が平生、また、なんにもない平穏無事の時にです。
 「おかげを頂いて有り難い」と、言わば、平和な心、和らぎ賀ぶ心というものが、頂けておるんですけれども、ね、そういう心が、頂けておるんですけれども、そういう心がたちまちにしてですたい、真っ暗い心になったり、乱れたり壊れたりするならば、それは本当の和らぎ賀ぶ心ではない。何故なのか?と、それは私共の心の中にです、限りなく美しゅうならせて頂いてからの、和らぐ心ではないからだと、美和ではないからだという事になるんです、ね、
 例えば汚い心がです、ね、言わば6千円掛かる6千円だけの、破損したに致しましてもです、ね、いわゆる頂いておるのは6千円ぐらいのお取り払いを頂いたとことなのですから、ね。ところが和らぎ賀ぶ心が、そのその事で心が暗くなったりその壊れたりする、私はその、妹が「美しい和」という事を「美和」という事を頂いたという事を、ここで聞きましてから、丁度御祈念さして頂く前に、すぐその事をここへひかえさして貰った、いやぃ成程そういう、美しい心から生まれるところの、和らぎ賀ぶ心でなからればいけんのだなということを、書かして、頂いたらですね。
 その、書きました横に、「不壊の白玉」と頂いた、皆さんお若い時に聞き覚えがあるでしょう、あの「不壊の白玉」という映画がございました、私共の、14・5の時分だったでしょうか、ね、「不壊の白玉」というのは、壊れない白玉という意味なんです、いわゆる「金剛不壊」ということを申しますでしょ、仏教の言葉で、いわゆる、私共の、金剛石にも似たような、不動の、例えば信念なら信念がです。
 どういうことに、直面いたしましてもです、壊れないという事なんです、不壊ということは、だから自分の心のなら中に、例えば白玉のように丸いです、和らぎ賀ぶ心を頂いておりましてもです、それが例えば、お参りの帰りでありましても、ちょっとした痛い事があった、難儀な事があった、そんな事が起こったというたら、もうその白玉が無残にも、壊れてしまうといったような事ではいけないということ、ね。
 「おかげを頂いた」と、「神様がお恵みを与えて下さったんだ」「大難を小難におまつりがえして下さったんだ」というそういうそのとにかく(高度な?)不壊のものなんだ、ね、それはただ私共の心の中に、お参りをさしてもらう、御理解を頂かしてもらう、御祈念をさしてもらう、何とはなしに自分の心の中に有り難い心が頂けたと、確かに有り難かったんだけれども、帰る時にはもう無かったという様なのは、これはだから本当の和らぎ賀ぶ心じゃあないということ。
 いわゆる「おかげは和賀心にある」と仰る様な、おかげが頂けれる様な和賀心ではないという事が分かりますですね。どういう事を聞こうが見ろうが、どういう事に会おうが、私の心の中にある所の、例えば不壊の白玉がです、私は本当の意味でのおかげを頂かれる所の和らぎ賀ぶ心であると私は思うんです、そういう和らぎ賀ぶ心を頂かせて頂く為に、愈々限りなく美しゅうならなければいけないという事になるですね。ね。
 「寄せ来る波が小金なり」と、とキヨシさんが頂いておられるようにです、それこそ金波銀波神の様に八波の御紋章が、こう浮いておる様にね、神様が例えばね、よそは一度は一時無月にしてでも、神無月に致してでも椛目のそうした、働きのために神港に着こうとなさっておられる、いや着かれた時に私共が受けてたたせて頂く心というのは、そういう不壊の心でありいわゆる、不壊の金剛不壊の心であると同時にです。
 不壊の白玉でなからなければならないということ、ねそういう心を持って、受けてたたせて頂く心の方は大丈夫か?ということでなからにゃいかんというのです、受けてたたせて頂く時に、もうグラーリする、受けてたたせて頂かにゃならんという時に壊れる、これでは受けようがないですね、それにはやはり自分の心の中に、「限りなく美しゅうならせて頂こう」とこういう心、ね。
 例えば今度の例えばですね、今度の御造営に千円おかげを頂こうと思うとった、ところがお父さんが椛目から帰ってきて、御理解を頂いてから「お母さん今度はもう千五百円おかげを頂くことに決めたぞ」と「私は千円っち思うとったとこりゃ、」っち、こう言うたりゃぁ折角の白玉が崩れてしまったわけです、ね、「ほんなこつですね。私は千円と思うとったばってん、あなたが千五百円と思うなさるなら、私は千五百円頂けれるだけの、信心をさして頂きましょう」という心が、これはもう不壊のものです。
 壊れていないです、いわゆる、おかげの、皆さんがです、おかげを受けたいという心がです、ね、千円持っていきゃぁ、千円かがつの品物しかくれませんよ、例えばデパートにまいりましても、千五百円持っていったら、初めて千五百円の、だけの、量の、品物が買えるようにです。私はもう千円の徳よりも、千五百円の徳の方が良い、のだけれども、私共の目先の汚なさと言うですか。
 「私は心に千円と思ったのに、お父さんが千五百円」もう五百円に不浄が付く、いわゆる(?)のその心が不壊になっ、あの壊れてしまう、ね、結局私の心の中の汚なさが、壊してしまうわけなんです、ね、それを一つお繰り合わせを頂きまして、ね。私共も「心の港」ね「石浦」と昨日それを頂いた、私共の心の港をまず開かなければいけない、ね、大黒様の元にです、十一月という月は、皆神様が集まられる月を神無月と言うが、ちっかりそれ違うてもです、椛目ここ、いやね、あそこ合楽にです、ね。
 他を神無月にしてでも、神の港に神様方が集まられるというほどの、ヒレイをあそこに見せて下さろうとしてもです、それを受けてたたせて頂くところの私共の信心内容というものが、確立されておらなければならないということ、それはどこまでも、どういう事を聞こうが見ろうが、その事でありましょうがです、私共の心の中に、ね、「不壊の白玉」、和らぎ賀ぶ心が微動だもしない、ね。
 キヨシさんが頂いておられる、金と銀との上に浮いている八波の御紋章的なおかげをです、私共の心に開かせて頂くところの、いわゆる、心の浦ですね、「石浦」、で受け止めた、ければならないということ、で、どうぞお互いの和らぎ賀ぶ心という和賀心という心を、もう一遍検討してみて、一遍も二遍も検討してみて、よくよく検討してみて、ね、はたして不壊の物であるかどうか?と、ね。そこんところを私は、確かめていかなければならないと、いう風に思うんですね。
 どうぞ「美和」と「美しい和」と「美しい和らぐ心」と、ね、そこから生まれてくるところの、お、和賀心でなからなければならない、ただお参りをさして頂いて、何とはなしに御理解を頂いておる内に、私の心の中に喜びを感じた、ね。それも有り難い、けれども、外に出た。困った事が起こっとったらもうその心が壊れてしもうた、といったような心では本当に、おかげを受けておれる和賀心にはならないということなんですね。
   おかげを頂きましょう。